橋の開通から一夜明けた2月1日、伊良部島の渡口の浜付近で伊良部丸遭難事故の慰霊碑の前で大橋開通の報告会が行われていた。
伊良部大橋関連取材を進める中で、何度も「伊良部丸」の言葉を耳にした。1940年6月に発生した宮古島と伊良部島を結ぶ「伊良部丸」の遭難事故。70人あまりの犠牲者を出した。
報告会実行委員会の仲間清昌委員長は「あの事故を契機に、架橋の気運が生まれた」と話す。島民の「夢」「悲願」は子へ、孫へ受け継がれ、76年後に実を結んだ。参加者の高齢化や減少にともなって長らく慰霊祭は中止されていたが、歴史の変わり目とも言える大橋開通実現の今年、慰霊碑の前に再び遺族の関係者らが集まった。
架橋活動の歴史は要請が開始された1974年と報じられる場合が多い。だが、もう悲劇を繰り返さない、という76年前の思いが、架橋運動の礎(いしずえ)となって橋の開通を待ち続けたのかもしれない。
宮古島市伊良部商工会会長の大浦貞治さんは、41年前に始まった架橋要請運動の中心にいた。まだ青年部メンバーだったころに行政メンバーによる中央への陳情活動などが行われていたが「民間でも何かできないか」と奮起。青年部長として、漁協、青年会議所、観光協会などの各団体青年部メンバーと団体の垣根を超えた「架橋促進青年会議」を結成。「少しでも後押しになれば」との思いを今へつなげてきた。
「架橋推進」の冠をつけた駅伝大会を開き、野球大会も催した。「爬龍船(はりゅうせん)」と呼ばれる手漕ぎ船を用いた2島間での競漕大会まで敢行した。「最初は片道だったけど、すぐに往復競漕に盛り上がってしまって」。活動を続けてしばらく経ったころ、「面白いことをやってるみたいだね」との中央政界発の噂が自分の耳にまで届いた。暗闇の先に光が見えた気がした。
青年部を卒業しても、同年代のメンバーと「架橋促進友の会」をつくり、活動を続けた。鍛え上げた後輩の現役青年部員とともに、さらに気運を盛り上げた。平成になり、21世紀になり、調査を経て着工決定となった日の感慨はひとしおだっただろう。それから10年が経った開通の日、大浦さんの携帯電話は鳴り続けた。
もちろん、大浦さんも報告会で慰霊碑の前に立った。「地元がずっと願っていた」と御霊に報告した。感慨深げだった。
No.02 開通の日 2015年1月31日 伊良部大橋開通式レポート
No.04 友達増えて、親戚も増えた 神奈川県から移住の清水陽介さん